すべては無常なり(ジェラール)
その存在が消えてわびしいときその芸術家について話したくなる。その芸術家が亡くなって、改めて作品のむこうのその人に光をあてる。その人が隠れてしまってから、かれに敬意を表する。 |
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ジェゼブルフ・カブラディンスキーは一生を慎ましやかに神秘に包まれて恥じらいの中で過ごした。そして2007年8月22日にこの世を去った。カブラディンスキー氏のその人柄はまったく独特で把握しがたい不透明なものであった。短い伝記から<すべては無常であった>人の生涯を語るのは実現不可能である。彼の名前すらも芸術家としての有為転変の生涯の中に埋もれてしまった。 |
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<ジェラール ブリドン>という本名で、子供の頃は釣りに夢中であった。ジェラール ブリドンはブラッサンスやアメリカのブルースマン、ジョン・リー・フッカー、ビッグ・ビル・ブルーンジーなど非常に音楽に傾倒し、音楽的な<耳>を持っていた。だからジェラールは自分でピアノやギターを弾き始め、マルブランシュ芸術学校をやめたときは<ジェラール ブレッティー>と名乗り、自由な芸術を選択した。 | ![]() |
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このジェラール ブレッティーは学校をさぼり、風刺好きで、1967年10月9日<ディディ>というニックネームのジスレーヌを魅了する。ジルスレーンヌはジェラールの情熱に加担することになる。この年、サンジェルマン・デ・プレの何カ所ものキャバレーで彼は舞台に出るチャンスに恵まれ始める。<ラ・メトッド>というキャバレーに出演して、仲間にはコリューシュやベルナール・ラビリエがおりそして<ビスティンゴ>にはカルロスもいた。彼らもショービジネスの狭き門で頑張っていたのだ。 ジェラールの音楽への情熱の果てに<バストラング・ジョーヌ>などその時代の音楽界で名を知られるにはうってつけのレストランで流しを始めた。 |
1968年が近づき始めていた。ジェラールは50年代のアメリカの大型車、ビュイック・ロードマスターを乗り、パリのキャバレーを徘徊した。しかし、アーティストとなる以前に、ジェラールはディディに惚れていて、1970年6月6日には死が二人を分つまで彼女を幸せにすると約束したのだった。 しばらくは医薬情報担当者として仕事をしていたが、ついにはアーティストに厳しい敵意に満ちた労働の世界に背を向けた。 |
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ディディといっしょにいると芸術的インスピレーションを感じるジェラールはアーティストの道をあきらめず、パリに移る。73年にはリドー・ルージュレコード会社から作曲した<サマーデイズ>45回転レコードを出す。歌手はデイヴィッド・コパフィールドだった。即座に流行し、レ・コンパニオン・ドゥ・ラ・シャンソンやティノ ロッシなどもこの曲フランス語版を歌い始めた。 |
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76年には、フランク・トマと共同で、33回転レコードを出し、作曲し、歌った。パテ・マルコーニのスタジオでアルバムの録音が行われた。
フィリップ・ダルキーのために作曲作詞したアルバム<Sales mes baskets (汚れたバスケットシューズ)>など彼の曲は翌年も流行り、ジェラールブレティは一躍有名になった。 |
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アーティストの生活をしながら、1974年に彼はパリから田舎へと引っ越し、広大な自然に囲まれ、狩猟や漁にも熱中し、ストレスの多いビジネスの世界にありながら、静寂な暮らしができる空間を確保した。
しかし、ショービジネスの世界に疲れ果て、失望した彼は1979年フレンチ・ポリネシアのマルキーズ諸島へと旅立つ。ディディとともにセーラーバックとギターだけを携えて。新たな発見をしたいという欲望にかられて。 |
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<今を生きなければならない。身を任せて、自然を見つめるのだ。>(ジェラール) |
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マルキーズ諸島への脱出は、ジェラールにとって、新しい地の発見だけでなく、新しい芸術の発見となる。ヒヴァ・オアからヌク・イヴァを通って、ファツ・イヴァへ訪れた地での発見、エキゾティスムは完璧なる芸術の追求欲をかき立てた。 | ![]() |
こうして彼はジャック・ブレルやゴーギャンの跡を辿り、現地の文化に浸り、タパを作ったり、マルキーズ諸島のモチーフを描き続けた。そうして徐々に彼の中に太平洋芸術への関心が芽生え始めたのだ。そして死ぬまで筆を離さないことになる。 6ヶ月のマルキーズ諸島での生活の後、インドネシア、スリランカ、マレーシアへと旅行を続け、パリに戻ってすべてを処理し、二度と彼はパリに戻らなかった。 |
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ポリネシアに惹かれ、夫婦はモーレア諸島に行き、そこで自分のカヌーを造り、魚を飼い、潜って魚を捕ったり、釣りをしたり、彫刻、絵画に熱中した。 | ![]() |
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しかし常に変遷を続けるアーティストである彼は、留まることを知らず、ニュージーランド、タイ国へと足を伸ばす。タイ国での美の追求からビルマの宝について知り、数々の宝石や古代の石を集め、首飾りを作ることに専心した。 |
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そして90年、彼はニューカレドニアに魅了される。そしてこの島に居着くこととなる。 |
<文字、物、色が合わさった彫刻された竹の普遍の美を絵画で表現する>(ジェゼブルフ カブラディンスキー)ヌメアの博物館でカナックの彫刻された竹のグラフィックに興味を持ち、そこから独特の版画技法を編み出し、統一性、独創性、材質の新しさをマッチさせ新しい手法を確立し、ジェラール・ブレッティーはジェゼブルフ カブラディンスキーとなる。 |
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始めはサイン入りの商品番号付き100枚限定のTシャツとして商品化された彼の版画は、時を経ず、アルシュ紙に印刷されるようになった。非常にユニークな手法、原始性と現代性が見事に調和し、エギゾティスムと個々の作品の特殊性はカナック芸術を世界に知らしめることとなった。カナックの大酋長ピエール・ゼウラが2003年7月フランス大統領ジャック・シラックのニューカレドニア公式訪問の際、カブラディンスキーの作品を贈与したことが何よりの証である。 |
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ジェラール ブリドンとして生まれ、ジェラール ブレッティーとして脚光を浴び、ジェゼブルフ カブラディンスキーとしてその作品を支えた。非常に慎ましやかで執拗に神秘的でさえある芸術家としてのジェゼブルフ カブラディンスキーだが、その人間性は魅力的で、知り合った人を惹き付けて止まない。エリックもその一人で忠実な友、仲間として20年近くもジェゼブルフ カブラディンスキーの作品の商品化、展示会のオーガナイズに協力して来た。 |
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<大切なのは時間ではなく、その人生の質である>(ジェラール)2004年ジェゼブルフ カブラディンスキーは病気になる。しかし残された人生を多いに楽しみ、息を引き取るまで光、材質、想像の世界を相手に仕事をした。 <彼は人生の、美の、そして愛の戦士であった>(ディディ) |
<人生は大演劇である。私たちは自分の人生の主役であり、それぞれの役割を持っている。僕は自分の役を演じ終えた。今度は君の番だ。>(ジェラール) |
アーティストである前に恋するジェゼブルフ カブラディンスキーはディディに自分の芸術の手法、作品を作り上げるのに必要な知識、術を教え、妻をその芸術の後継者にした。そうしてジェゼブルフ カブラディンスキーは比類稀な芸術遺産を妻に残し、託した。 あるアーティストがこの世からいなくなり、寂しく感じるとき、その人について話したくなる。 アーティストは亡くなると、その人、作品なりに光が当たり始める。そうしてその光の中で芸術家は生き続けるのだ。 翻訳 デルリュー敦子 |
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